In God We Trust
*2010年ジャン誕のルキジャンパートの海軍話が元になってます。



 天気は快晴。雲一つない空。海も穏やかに凪いでいて、地平線の彼方まで見えそうだ。
 そんな中、アメリカ海軍の帆走フリゲート艦エレクシヲンは海のど真ん中で立ち往生を余儀なくされていた。
 太陽は燦々と照り続け、甲板にまで水兵たちのだらけた姿がちらほらと見え始めている。戒律が厳しく優秀と褒め称えられるアメリカ海軍だが、今はタダ飯を食らうくらいしか能がなかった。――なぜなら、風がない。エレクシヲンは最新鋭の艦だというのに、波の上をただ揺れていた。帆を海水で濡らしてもこの有様だと、もうどうしようもない。
 ぐるりと見渡して見えるのは海と波と、そして小さな無人島だけ。申し訳程度に木の生えたそこは、ワタリガラスの巣窟となっている。
 つまりただのいま。彼らは絶大なる暇を持て余していた。
 カラスの鳴き声に混じってアホウドリの声が聞こえる。人間とは違い、どこに行っても元気なヤツらだ。ジャンはきっちりと上まで締められたボタンに辟易としながらそんなことを思った。
 目には、それなりの秩序を持ちながらのそのそと動く水兵共が映る。遠巻きにちらちらとこちらを伺っているくせに、決して近づいて来ようとはしない。――警戒されているのだ。
 ジャンの階級は5等海尉。このエレクシヲンの尉官の中では一番下っ端で――、そしてこの艦で一番の新参者だった。
(っちぃ…)
 着ている服を脱ぎ捨ててしまいたくなる。だがそんなことをして、自分のなよっちい身体が白日の下に晒されてしまうのはごめんだった。舐められては終わり。こんな海の上では逃げることも隠れることも出来ない。そのことを笑って教えてくれた男の低いトーンが甦り、そしてかけられた声と重なった。
「背筋が曲がっているぞ、デル・モンテ海尉」
 温度まで覚えてしまったでかい手がジャンの背中を叩いた。振り返るまでもない。だがジャンは向き直ると、長靴の踵を景気よく鳴らし体をぴしっと弓のように張って敬礼する。
「お疲れさまです、グレゴレッティ海尉」
 途端、空気が張り詰めた気がした。いつもなら士官室に籠もっているはずの尉官二人が出張ってきたことと、このルキーノ・グレゴレッティがエレクシヲンのナンバー3であるのが原因だ。
 ルキーノは男前な顔に笑みを載せて、ジャンを見た。
「様子はどうだ? 何か変わったことは」
「いえ、特には。今日に至っては風も、ピクリとも吹きませんし」
「そのようだな」
 ジャンよりは頭半分は上にある顔が喉をさらけ出す。ルキーノの視線の先にある帆は、自分たちの気持ちを現すかのように垂れていた。
 ルキーノの、普段は帽子に隠れている赤いたてがみが揺れる。ゆっくりと様子を窺うように周囲に視線を戻し、苦笑した。
「どうやらみんな、腐っているようだな」
「これほど無風では仕方ありませんよ。何せ四日も、ですから」
 そう四日、もう四日だ。懲戒に出たエレクシヲンはすでにその日数分、足止めを食らっていた。そよ、と吹いてはすぐに止んでしまう風に翻弄される日々。そろそろ帆から塩でも取れそうである。
 今すぐに、という気になる噂は流れてはいないが、それでもゆゆしき事態だ。この辺りに隠れていると噂されるライム野郎(イギリス軍)たちも同じ状況には違いないが、兵たちの間に軽い不満と焦燥が溜まり始めている。この状態が続くと、下手をすれば暴動が起きかねない。
 せめて何かあれば。こう、皆が沸き立つような何か。
 そんなふうにジャンが思った時だった。ルキーノがその長い足を一歩、大きく前に出した。そして、大きな体を見せつけるようにゆっくりと、辺りを見渡す。注目してくれと言わんばかりのその仕草に、予想どおり水兵たちの視線が一気に集まる。
 朗々と語る声が響いた。
「諸君、勤めご苦労。だが苦しいかな。諸君の優秀なる能力はここ数日、ロクに使えない状況だ。全くの損失だが、どうやら海の主はよっぽど俺たちに休めと言いたいらしい」
 ルキーノが困ったように肩をすくめると、水兵たちの間から笑いが漏れた。それでも場にいる誰もが砕けきらない辺りは、さすがとしか言いようがない。ざわめく声を手の平で止め、もう一度水兵たちの顔を確かめるよう顔を動かす。
「そこで、だ。せっかく飛び込んできた休暇だが、我が勤勉なるエレクシヲンの皆は、そろそろ暇を持て余している頃だろうと思う。――だから一つ、ゲームでもしようじゃないか」
 ルキーノはポケットから一枚、コインを出してきた。キラリと太陽の光を受けて輝くそれは、ピッカピカのリバティキャップ。2.5ドル金貨だ。途端、荒くれどもの口からどよめきの声が上がる。ルキーノはコインを見せつけるように、高々と太陽に近づけた。
「ここに一枚のコインがある。諸君も休憩の間などにやったことがあるだろう。この裏表を当てる、簡単なゲームだ。そして、当てた者にはこのコイン相当の額を分配しよう」
 ざわめきが一度止まった。それから吹き荒れる嵐のような喚声が上がる。
 今ここにいる人数を抜け目なく確認する者、降って湧いた幸運に絶句する者、感謝する者。その対応は様々だ。そんな水兵たちをジャンは抜け目なく観察し、顔と名前を一致させる。ただヤツらは一様に、金貨相当の額が自分たちの物になると信じて疑っていない、そんな顔をしていた。なぜならそれは――
 ちらりと横の上官に視線を寄越すと目が合った。太い笑みを返される。それでおまえはどうするんだ? 目がそう言っている。ジャンは少し考え込み、だがこちらが何かリアクションを返す前に赤毛の上官は何事もなかったように前へと向き直った。そして、すでに期待で目を輝かしている自分の部下たちに、最後の念を押す。
「賢明な諸君なら、このコインの運命がどこにあるのか、知っていることだろう。――用意はいいかな?」
 ルキーノがコインを持つ右手を真っ直ぐに伸ばした。甲板中に通る声。

「Heads or tails(表か裏か)?」

「「「Heads!!!」」」

 怒号のようなざわめきが響き渡った。何かを狙って近づいていたカラスが驚いたように飛び立つ。反対に、興味深そうにこちらに寄ってくる影も見える。そして投げられようとするコイン。そんな中、ジャンは腹に力を込め、一人遅れて参加を表明した。

「Tails!」

 一瞬、何が起こったのかわからないかのように甲板が静まりかえった。コインを投げたルキーノまでもが目をまん丸くして、こちらを見ている。
 途端、奇声の渦が起こった。嘲り、馬鹿にしたような声。新しい海尉殿は道理を知らないかという言葉。それらがジャンを剣先鋭く狙ってくる。しかしそんなものにはビクともせず、澄ました顔を保った。
 ルキーノグレゴレッティ2等海尉。彼の持つリバティキャップは女神しかいない幸運の証として有名だ。
 そう、彼のコインには裏に棲まうはずの鷹が存在しないのだ。
 その話はアメリカ海軍の中でも有名で、特に尉官の中では知らない者はいない。そんなことは誰よりも一番よくジャンが知っている。
 だが、賭はどちらか一方だけでは成り立たないものだ。このまま自動的に表が出て、単にルキーノが金払いがいいと、そう思われるのも癪だった。
 これ以上はない、分の悪い賭だ。それでもこのコインの裏表が一度で終わらないのならば――、この負けの分を払えと迫られたのならば、ジャンには幸運の女神の髪の毛をひっつかむチャンスが出来る。そして、この艦の尉官として認められるまたとない機会も。
 皆の目が金貨から離れ、ジャンの方へと向いている、そんな時だ。
 ギャッと甲高い、けれど人の物ではない声が上がった。それから落ちてくる、何か。それは甲板の上にチャリンチャリーンと音を立てて、続けさまに転がる―― 一つはジャンの、もう一つはルキーノの足下へと狙ったように。
 水兵たちの目が、今度は別の意味を持って一斉に二人の元へと集まる。
 ジャンは足下を、何度も瞬きをして確かめる。見間違えるはずもないくらいピカピカのそれは、どこからどう見ても金貨だ。ゆっくりと金貨が落下してきた軌跡を追う。
 上空では、何かを探すように一羽のカラスがエレクシヲンの上空を旋回していた。
 しばらく回ってこちらを伺っていたようだが、一声カアと鳴くと、諦めたように島の方へと戻っていく。
 ジャンはルキーノと顔を見合わせた。ルキーノの足下にあるのは、右向きのリバティキャップ。つまり、表。
 そして、ジャンの足下で存在を主張している金色はと言うと――裏面を向いたギニー金貨だった。スペードの形に四種類の紋章が象られている、イギリスの金貨だ。
「Tails……」
 横の上官が呟いた。それからルキーノは大きな体を屈ませて金貨を持ち上げると、部下たちに提示した。
「諸君! 諸君の賭けたコインは表だ。だが――彼の、このデル・モンテ海尉が選んだ、裏を告げるコインがここにある!」
 親しげにジャンの肩に手を置くと、芝居がかった仕草で自分よりも一回り小さい手にその金貨を渡した。ジャンはルキーノに代わり、こちらを見る荒くれどもに視線を向け、大きく掲げる。
「これはギニー金貨だ。聡明なる我が同士たちならば、この意味はわかるだろう。――総員、配置に付け!!」
 怒号が響いた。一気に駆け上がる緊張感。駆け出す水兵たち。ようやく動き出した戦局。これ以上に奮い立たせる事実など存在しない。
 ジャンは密やかに息をついた。それをデカイ手が押し止める。
「さすがラッキードッグ、ジャンカルロ。だが、まだ部下の前だ。安心するのは早いぜ?」
 告げられた言葉は囁くような、早口のイタリア語だった。目を大きく開けたジャンに、ルキーノは挑戦的な笑みを口に浮かべる。
「よくぞあのタイミングで賭けに乗ってくれたもんだ。あのワタリガラスはここに巣を作っている。だが、この金貨は海水に浸った様子もない磨かれたまんまだ――俺たちの仕事は、わかるな?」
「ライム野郎を見つけて、ぶっつぶすこと…!」
「ブラーヴォ!」
 ルキーノが破顔した。その男前な顔にジャンの胸が跳ね上がる。それを誤魔化すように船内へと続く扉を開け、二人は中へ入った。
 外とは違い、船内は静かなものだ。だがそれも、数分の後に喧噪に包まれることだろう。扉を閉め二人が歩を進めようとした時、突然船が揺れた。倒れ込みそうになるジャンをルキーノが受け止める。
「風が来たようだな…。これもおまえが喚んだのか?」
 ジャンはルキーノの肩を借りて体勢を立て直したが、また横に揺れる。ほぼ四日ぶりの感覚。マストに掲げられた帆はピンと張られ、エレクシヲンは今頃あの無人島を後にしていることだろう。
「まさか。そんなご大層な特技、持ってませんヨ。あるならとっとと使ってるつうの。……そういや、さっきの賭ってどうなるんだ?」
「賭? ああ。そんなもの、勝利記念にパーッと使ってしまえばいい」
 誰もいないことをいいことに、コソコソと敬語を抜きに話し合う。
「なるほど。そん時はじゃあ、これも上乗せってコトで」
「太っ腹だな」
「先輩ほどじゃあ、ありませんって」
 ジャンはギニー金貨を弾き手の平に掴むと、ルキーノの腕の中から抜け出した。ルキーノも心得たようにジャンの肩を叩き、体を離す。
「では、デル・モンテ海尉。貴君はジョーンズ艦長に報告を。私は他の海尉に伝えてくる。その後、尉官は招集だろう。忙しくなるぞ」
「あ、ああ…じゃない。了解いたしました」
 手柄を譲ってくれたルキーノに敬礼を贈る。そんなジャンを見ていたルキーノだが、何かに気が付いたように眼を細めると、そっと顔を寄せてきた。そして耳元に告げられるセリフ。
「――今日の夜も暇を持て余しているようだったら、付き合ってもらおうと思っていたんだが、な。残念だ」
 耳殻に息を吹きかけるように囁かれた言葉の意味がジャンの脳に浸透する頃には、ルキーノは、では、と背中を向けてしまっていた。
 頬に集まる熱を見られなかったのは幸いだが、これではすぐに艦長室に向かえない。
「ファンクーロ…!」
 小さく罵りの言葉を呟きそれから、陸に上がったら見てろよ、と続けると、火照る頬を押さえながらジャンも職務を果たすべく歩き出した。



色々捏造とか含んでますが我慢できなくって書いてしまった話。
通販のペーパー用の小話から。

2010.12.26 サイト掲載


BACK