スイッチ |
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何かが聞こえた気がして目が覚めた。心地よい風が頬を撫でる。それとともに感じる、草いきれの匂い。 身を起こすと体のあちこちについた芝がパラパラと落ちた。緑の芝と白いシャツとのコントラストが絶妙で、しばらく落ちるそれを無言で見る。 それから数秒の後、トレードマークの赤い髪の生え際をつかみ、ルキーノは苦笑した。自分としたことが、どうやら芝生の上で寝転がっているうちについ、ガキみたいにうとうとしてしまったらしい。これではどこかの誰かを笑えない。 クツクツと笑いを零していると、もう一度、先ほど目覚めを促したものが耳に届く。それは古い歌だった。イタリアの子供ならばみんな知っているような、そんな。 歌の聞こえる方向に見当をつけて辺りを見回す。それは、ルキーノを覆ってもまだ余裕のある見事なまでの枝ぶりに、現在進行形でお世話になっている木陰の上から聞こえてくるようだった。 天にはちょうど反対側に太陽がかかっていて、木の上にいる人物の顔は逆光で見えない。しかしそれでも声と、何より見事なまでに反射する金髪は間違えようがない。 太い枝に腰掛けているその人物も、見上げるこちらに気がついたようだ。歌う声を止めて話しかけてくる。 「グッモーニン、ドン・グレゴレッティ。ご機嫌いかが?」 「ボナセーラ、カポ・デル・モンテ。お前、また逃げ出してきたのか」 そこにいたのはジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテ。CR:5の若き二代目だ。昔から脱獄が趣味だと言ってのけるヤツではあったのだが、それはカポになった今でも抜けきらないらしい。気分転換と称して、いつの間にか執務室からいなくなっては、ベルナルドの前髪を痛めつけている。 ルキーノが眠りに落ちる前までは、そこに見える窓の中でせっせと職務に励んでいたはずなのだが、いつの間にか抜け出してきたらしい。 「逃げ出したなんて人聞きの悪い。息抜きだよ、息抜き」 ジャンが枝の間で両手を広げ、肩をすくめた。その時出た葉ずれの音にヒヤリと肝が冷える。ルキーノは慌てて腕を広げ構えるが、それから続く音はない。 そんなルキーノを見て、ジャンが笑う。 「何、俺が落ちるとでも思った?そんなヘマ、しねえって」 「―――オイタは止めとけよ、ジャン。そんなことで怪我でもしたら、GDの奴らとカタギの皆さんのいい笑いの種だ」 「へいへーい。でも、ホント大丈夫だって。昔っから慣れてっから。人間、自分の目線より上ってのは結構、注意がいかないって知ってる?」 かくれんぼは得意なんだぜと唇の端を上げるジャンは、まさしく悪ガキそのものだ。これではあの修道院長様も困らされたことだろう。まあ、負けていなかったとは思うが。 「ほう。そりゃあいいことを聞いた。今度、ベルナルドに報告しておこう。お前はもうちょっとあいつの前髪を気遣ってやるべきだと、常々思っていたんだ」 「ちょっ、ちょっと待てって!大体、それを言うなら、あんたが金銭的に与えてるダメージのほうが大きいだろ!」 「俺のは必要経費ってヤツだ。それでも三回に一回は何とかして焼却炉に持って行けないか検討される。全く、こっちの胃のほうがダメージだぜ」 「ははっ。何?ベルナルド、そんなことしてんの?」 そう言ってジャンは笑いながら、裸の足を振った。………裸足? 「ってジャン!お前、靴は!?」 「靴?あー…履いてっと滑るからさ。ほら、そこに」 親指をくいっと後ろに向ける。ルキーノが幹を回ってみると、ちょうどルキーノのいた側と反対のほうに艶やかな黒に彩られた革靴が二つ、不揃いに落ちていた。ご丁寧に靴下まで突っ込んである靴をルキーノは拾い上げる。 「これ、こないだ俺が選んでやったヤツじゃねえか!いい物なんだから、もっと大切に扱いやがれ!」 「悪い悪い」 上を向かって怒鳴ると、あんまり悪いと思ってないような声で返事が返された。それと同時にまたも上で、葉ずれの音がする。そのたびに、どうにも落ち着かない気分になった。 ジャンがいるのは、ルキーノですら見上げるような立派な枝振りの木の上なのだ。例え、ラッキードッグとしても、この高さから落ちて何か間違いがあったら。そう思うと、気が気ではない。 「おい、ジャン。さっさと降りろ。」 元いた場所に戻り、もう一度ジャンを見上げた。手を振ってジェスチャーでこっちに来いと促す。 「このままだと、俺の前髪のほうがどうにかなりそうだ」 「はいはい、わかりましたよ。じゃあ靴―――」 そう言って、後ろを向こうとするジャンを急いで止める。くそっ、あんまり動くんじゃねえよ。心臓に悪いだろ! 「靴はここに俺が持っている―――ああいや、待った。そのまま降りて来るんじゃない。万が一でも足を滑らしたら、どうするんだ」 「へ?じゃあ、どうやって…」 「―――来いよ」 ジャンの返事を待たず、ルキーノは腕を大きく広げた。ジャンを真っ直ぐに仰ぎ、その下で待っている。その意味することはただ一つ。 ジャンがそれを見て、悪戯っぽい笑みを返した。 「りょーかいっと!」 戸惑い一つなく手を幹から離すと、ジャンの身体が飛んだ。万有引力の法則に基づき、そのまま落下する。 一瞬の後、ボスンッと音を立てて、傷一つなく仰向けにジャンはルキーノの腕に収まった。 「ナイスキャーッチ」 「ラッキードッグは脱獄癖がないのか?靴より大事な大事なマイボスだ。それはもう、丁重に扱わせていただくさ」 「それだけじゃないくせに」 落ちないようにと、ルキーノの首に両腕を回したジャンの唇がちゅっと音を立ててルキーノの唇に触れた。くすぐったそうにルキーノが眼を細めて、それを受け止める。 「全く。犬だ犬だと思ってたが、猫か?お前」 「にゃーん」 「ははっ。そうやって大人しく鳴いとけよ、子猫ちゃん」 ジャンの猫の真似に、ルキーノが破顔した。そしてジャンの頬に一つキスを落とし、そのまま歩き出した。 「おい、ちょっ…ルキーノ!?」 「大人しく鳴いとけって言っただろ。何だ?落とされたいのか?」 「いや、落とされたくはねえけど…自分で歩けるって!」 「ダメだ。腕ん中、収まっとけ」 ひょいっとジャンの靴を指にひっかけて、ジャンを横抱きにルキーノは屋敷へと向かう。 「ラッキードッグ、一匹確保、ってな」 「何なんだよ、あんた。何がしたいんだ…」 いい成人した大人―――しかもマフィアのカポが部下に抱っこされている、そんな姿を他の誰かに見られたくないのだろう。けれど、ルキーノは下ろす気は全くなかった。こうなったルキーノは絶対に自分の意志を押し通す。それを知っているジャンも諦めたのか、腕の中で大人しくなった。 屋敷へと向かう途中、木陰に入った。すがすがしい風が頬を撫でる。それと共に先ほどの歌がルキーノの頭の中をかすめた。 「なあ、ジャン。さっきの歌、もう一度歌ってくれるか?」 「は?さっきのって…ああ」 これ?という言葉と共に落とされる歌声。古くから親から子へと受け継がれていくそれは、子守歌だった。ジャンの紡ぐ優しい音程がゆっくりとルキーノの身体に染み渡る。それはまるで、自分の安眠を守ってくれていたようで。 「ジャン。舌出せよ」 「んー?」 首を傾げながらも大人しく出したジャンの舌をゆっくりと甘噛みした。ルキーノは器用にジャンの金髪の後頭部に手をあてて、さらに深く舌を絡め合わせた。そのまま首を伸ばして口内をまさぐり出す。 しかし、さすがのルキーノもジャンを抱え上げたままでは、そう長くは続けられない。適当なところで切り上げて、唇を離した。それでもジャンの目は既に潤んでいる。 「あんまりそんな目で見るな。ベッドに直行したくなる」 「だ、誰のせいだよ…ったく……このケダモノ…!」 どこであんたのスイッチ入るのか全くわかんねえよ、とぼやくジャンを腕に、ルキーノは止まっていた足を屋敷に向かって踏み出した。 どこでスイッチが入るかだなんて、そんなもん、お前が可愛いコトするからだろうが―――そんな台詞はそっと飲み込んでおく。 屋敷に戻った二人の草だらけの姿に、幹部筆頭が頭を抱えるのは、それからすぐの話。 |
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2009.08.23初出 2009.12.17サイト掲載 |
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