Before Valentine


寒さはピークを越し、そろそろ暖かさの兆しってものを感じさせるようになってきているここデイバンの街は、デコレーションされたお菓子のような佇まいを見せていた。まあ、店先に売ってんのは本当にお菓子なんだけど。ジャンは、口の中で飴を転しながらそんなことを考える。
それは、先ほど店先にあるキャンディボックスをまじまじと眺めていた結果の戦利品だった。熱心に見つめ考え込んでいるジャンの後ろにいた大男が、呆れたように右目を半目にしてから溜息を一つつくと、店員を呼びつけたのだ。
自分の分じゃないと否定する間もなく、リボンでくるまれた小さな女の子が喜びそうな箱を満面の笑顔の店員に差し出され思わず受け取ってしまった。それを小脇に抱えて、二人は並んで歩いている。
プレゼントは単純に嬉しい。けれど、もらえるのならば今日じゃないほうがもっと嬉しかった、とはさすがに言い出せない。いっそのこと、これにかこつけて誘えばよかったんじゃねーのと思いついたのは、手渡されて歩き出した後のことだ。
「シニョーレ、いかがですか?あなたの意中の方に花束を!」
横に並んで歩く二人に、そんな声がかかる。店がひしめき合う道路沿いは、この時期ばかりはケーキのように甘い匂いとカラフルな花で埋め尽くされている。
意中の方って言ってもなあ…。ちらりとジャンがルキーノを見ると、ちょうど目が合ってしまった。ロゼワインの色をした瞳がびっくりしたように大きく見開かれ、それからニヤリと確信犯のように笑われる。何だよその目は。こっち見たのはアンタもだろ!
ふいっと視線を逸らして、かけられた声には手を振って断りの意を伝えた。残念そうに首を振っていた親父だったが、すぐに次の目標を見つけたようで、熱心に勧める声が後ろから聞こえてくる。
花、という選択肢は悪くないと思う。けど、その先には最大の難関が待ちかまえているのだ。
もう一度、横の赤毛の男に視線を投げかけるが、今度は合うことはなかった。
クリスマスから年始までのあの思い出したくもない日々はようやく喉元をすぎて、まああれも次は何とかなんじゃねーのと高をくくりだしたそんな時期。つまるところ、今は二月だった。
二月の一大イベントと言えば。ジャンはジュリオの顔と――それから横のルキーノの顔を思い浮かべる。
ジュリオの誕生日は人数は少なくとも盛大に。そう、この間ベルナルドには話をつけてきた。ボンドーネでどうせ盛大に開かれてしまうだろうパーティは、ならば自分たちは気心の知れたものだけで集まってひっそりと祝えればそれでいい。表向きに祝った後に、こぢんまりと五人で集まってハッピーバースディを歌うのだ。
一人騒ぎ立てたり、二人ほど顔がひきつるかもしれないがその辺はご愛敬だ。何のかんので乗ってくれるに違いないのだから。
そんな風に詰め込んだスケジュールは考えただけで、自分の足まで浮きだって赤い靴を履いた女の子のように、今にも踊り出しそうになる。けれどその前日は――
もう一度、ちらりとルキーノを見た。今度は視線に気が付いたようで、男の髪と同じ色をした眉が訝しげに顰められる。
「何だ?さっきからじろじろと。俺がいい男だからって見惚れるのはかまわんがな、今は仕事中だ。せめて車の中までは我慢してくれよ?」
べろりと、ジャンにだけ見えるようにルキーノが自分の唇を舐めた。それがやけに卑猥で、しかも意図的だったものだから条件反射のように顔が赤くなってしまう。
後ろからぞろぞろとついてきているであろう部下たちを見て、それから聞こえないよう、声のトーンを落とした。
「ちっげーよ!アンタこそいっつもいっつも、昼間っから何考えてんだ!」
「何って、ナニのことなんだろ?」
「だーっ!だからちげーって!」
小さいながらもはっきりとした口調で反論するジャンをルキーノは口角を上げて面白そうに眺めていたようだが、クスリと笑って肩をすくめるとまた前に向き直った。何ですかその、しょーがねえなあって態度は。むしろこっちが肩をすくめてやりたいとこなんですケド。
(大体、何ってなあ…。今ここでアンタに『そういやバレンタイン、どうするんだ?』なんてしれっと聞けるわけないだろ!)
そう。目下の問題は目前に差し迫ったバレンタインだった。
相変わらず、ジャンは自分たちの関係に名前を付けられないでいる。多分、ルキーノもそうなのではないかと思う。そんな曖昧な、けれどもう手放すことのできない関係。
だから、こんなイベントに対して誘いをかけていいものなのかわからなくて、躊躇をしてしまうのだ。
もしかしたら、言葉という形にくくりつけてしまうのが怖いのかもしれない。
あの、静謐な空間に向かうルキーノの背中を見送るたびに、そして共に横に立ってお祈りをするたびに、どうしようもなく切なくて。だけど、どうしようもなく――
「おい、どうした?」
気がつくと、目の前に心配そうに覗き込む、ローズピンクの瞳が見えた。
「へ?いや、ああ…」
ぼんやりとしていたらしい。慌てて、何でもないと手を振って答える。
ダメだ。思考が迷路の入り口の真ん前で、一歩踏み出そうとしてやがる。このまま入り込んでしまっては、今日は仕事にならなくなってしまう。
頭を切り換えようと、ジャンは周囲を見渡した。
デイバンの街並みは華やかに彩られ、ちょいと横を見れば浮かれた足取りのシニョーラたちや、思案顔で店先を覗き込むシニョーレがいる。
バレンタインなんて忘れていたら楽だったのに、な。だけど、街並みがそうさせてはくれない。ムショに入り浸っていたほんの数年前までは女がいれば適当に、いなければそれなりに。中に入っていればイベントごとなんぞ関係がない、気楽な日々。
だけどルキーノと知り合ってからこっち、何でもない日がどんどん特別な日に変わっていく。
(一番の問題は、だ。それが嫌じゃないことなんだよなあ…)
ジャンはキャンディボックスに手を突っ込みキャンディを取り出すと、口にひょいっと投げ入れた。甘さが口と頭に染み入るようだ。
甘いなーと口をもごもご動かしていると、コツンと拳で後ろ頭を小突かれた。
「こら。車まで待てって言っただろ。…待てができないのはベッドの上だけにしとけ」
「……さっきアンタが言ってたのは、チガウ待てだと思うんですけど?」
「同じさ。今は仕事中だろう?」
ほら、とキャンディボックスはジャンの腕から赤毛の男の左腕へとさらわれてしまった。
「ボスが通りの真ん中で、ガキみたいに飴をしゃぶってんじゃねえよ」
まあ、買ってやったのは俺なんだけどな、と困ったように眉をちょっとだけ顰めて苦笑する。
ルキーノの腕に抱えられたリボンのキャンディボックスはひどくしっくりと馴染んでいて、それが意外だと思うと同時に、心のどこかでそうだよなと納得もした。多分、こんな風に抱えて家路に向かったことが何度もあるんだろうと、思いあたったからだ。
それからしばらく、とことこと二人並んで歩く。次は本部に戻ってそれから顧問の爺さま(と呼ぶと全力で否定した後、蹴飛ばされるのだが)達と会食だ。それなりに詰まったスケジュールは、しばらくの間ジャンの中からバレンタインの文字を消してくれるだろう。
2月14日まではもう少し。まだ時間はある。それより先にお仕事お仕事。ちゃんと終わらせないと、それこそ予定を入れるも何もなくなってしまう。
この後のことを話ながら歩いていると、そんなに時間はかからずに豪奢なまでに目立つ車の前へと辿り着いた。今日は下町に行く予定もないからリンカーンだ。黒塗りのボディはキラリと太陽光を浴びて、ピッカピカに光っている。
その横、後部座席のところに黒服が待ちかねたように待機していて、そのまま恭しくドアが開かれた。まるで赤い絨毯でも出てきそうな様相だ。さすがルキーノの部下と言うべきか。
最初にルキーノがその大きな体を車へと詰め込むと、ガクンと車体こちらへと傾いた。相変わらず重いハニーですこと。表情には出さず心の中でクスリと笑っていると、ひょいっと何気ない仕草で手が差し伸べられる。
頭にハテナマークを浮かべながら手のひらを重ねれば、ジャンは勢いよく車内へと引き込まれた。
「う、っわっ」
ドスンと地響き(この場合、車響きって言うのか?)が鳴る勢いで、寝転がったルキーノの上へとジャンの体が折り重なった。バタン、と背後でドアが閉められる音がする。部下から驚きの声も上がりゃしない。ホンットーによく躾けてあるよな、アンタの部下!
「おい、出してくれ」
ルキーノが運転席に向かって指示を出した。了解しましたの声と共に下ろされる前と後ろを繋ぐ間の窓。これで後部座席は密室って訳だ。
「……アンタ、何考えてんの?」
「さっき言っただろ?ナニだって」
後頭部をごつい腕に押さえつけられて、逃げられずに交わされる唇。チュッと音のしそうなそれは、啄むだけのものだった。
ルキーノの唇が濡れていて、ジャンは腰の辺りに熱が集まりそうなのを感じる。けれど、ここでそれを悟られてはなし崩しだ。できるだけ自分より一回りは違う体から離れ、何でもない風に笑って見せた。
「俺、タダイマお仕事中なんですけど?」
「知ってるさ。この後本部に戻って、それから顧問たちと会食、だろ?」
ジャンのスケジュール帳に書かれている予定を、ルキーノがすらすらと空で読み上げる。
「じゃあこんなことしてる暇ないの、わかってんだろ。離せよ」
「暴れるなって。おまえが暴れると、本当にそんなことをしたくなるじゃねえか」
何とか腕から抜け出そうとするジャンに、冗談だよ、とルキーノが笑って言った。それから、さっき抱えていたキャンディボックスを探り出して、中から一つ取り出すと、そっとジャンの口に押し込んでくる。口の中で甘さを主張していたキャンディはもう小さくなっていて、今入れられたものと一緒に右頬の方へと転がした。何なんだ?一体。
笑顔でジャンを見ていたルキーノの腕に、不意に力がこもる。
「へ?」
間抜けな声と共に、ジャンはルキーノの体の上へと引き倒されてしまった。ちょうどルキーノの右肩にジャンの顔がかかる。だから、呟くような普通ならば風にさらわれてしまうようなそんな声もちゃんと耳に届いた。
「ジュリオの誕生日、な。キャンディボックスは止めとけ」
「は?」
思わず目をぱちくりと瞬かせて、ジャンはルキーノの方へと顔を向けた。
ジュリオにどうかと見ていた意図に、ちゃんと気が付いていたのかと思うけれど、だったら何でわざわざ俺にそのブツを寄越したんだ?このライオンは。
ルキーノの顔を覗き込もうとするが、馬鹿力に押さえられていては動くこともできない。見えるのは穴も開いていない耳と綺麗に整えられた髪の毛だけだ。
結局身動ぎも出来ずなすがままにさせていると、先ほどよりもさらに小さい声が耳に落とされた。
囁くような、けれど熱っぽい声。
「前の日はちゃんと、空けとけよ」
花束持って迎えに行ってやる、と氷った鏡の欠片すらも溶かしてしまいそうな声で続けられた。
目を丸くしたジャンが間抜けな顔をさらしている内に、上体が正しい位置へと戻される。気が付けば、何事もなかったかのようにリンカーンの後部席に大人しく並んで座っていた。
横に座る男の顔はいつもの澄ましたもので、先ほどの熱は冬の空に吸い取られてしまったかのように見えなくなっている。
誕生日は家族と祝うものだ。クリスマスも同じ、ファミーリアのためにある。だから、ジュリオの誕生日は盛大に、幹部たちで集まって祝おうと決めた。
だったら、ニューイヤーやバレンタインは?
その日が約束で埋まる意味を考えて、ジャンの顔は耳まで赤くなる。ルキーノに見つからないように窓の外へと顔を向けた。
本国のバレンタインの意味。それは――。
こんな冬の日なのに、車のヒーターよりも高いんじゃないかという温度で、体はせっせと顔に熱を送り込んでくる。
何だか悔しくて仕方がない。
だから、当日はキャンディボックスじゃなくってこう、もっとこの男に似合うシックでゴージャスな甘いものを贈ってやろうと心に決める。
そうして、窓に向かって肘をつくと、ジャンは先ほどショウウインドウに並んでいたお菓子の群れに思いを馳せた。





イタリアのバレンタインは、愛し合う者同士の日らしいですよ!

2010.02.11

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