愛と青春の日々 2


「あー腹減った」
ごろん、とジャンはバスローブを羽織っただけの状態でシーツの海に突っ伏した。ピンと張られたシーツが大変気持ちいい。
風呂から出てくると、先ほどまでの情事の痕跡は嘘のようにさっぱりとその姿を消してしまっていた。
相変わらずこんなところは几帳面な男だ。挿れたまま寝ることもあるかと思えば(寝るっつーかその場合の俺は、ほとんど気絶なんだが)、こんな風に何も言わずに気遣いを見せてくれる。だからジャンも、体の方はローブが吸い込んでくれるからいいとして、髪は持ってきたタオルで丁寧に水気を拭ってから、倒れ込んだ。
横で、ズボンだけ履いた半裸の男が上半身を起こして満足そうにタバコを燻らせている。ふー、と煙が吐き出されると、嗅ぎ慣れたタバコの香りが一層強くなった。それから、降ってくる声。
「運動のあとは、腹が減るものさ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。目を瞬かせると、瞳を細める男と目が合って、先ほどの自分の呟きへの答えだとわかる。
「……あれは、運動じゃなくて、酷使って言うんだよ」
だるくなった顎と脚を撫でさすり、ジャンはルキーノを恨みがましげ睨む。それに気がついているのかいないのか、横の男はクツクツと笑うばかりだ。
「そうだったか?――だが、おまえも、よかったんだろ?」
眉をしかめて見上げた顔は自信に満ちあふれた笑みをかたどり、ついでに男の色気までにじませていて。
その上「も」と来られてしまっては、口の中でごにょごにょと悪態をついて下を向くしかない。こんな風にルキーノが見せてくれる好意の切れ端を掴んでしまうと、どうにもむずがゆい気持ちが溢れてきてしまう。それが何というのかは、まだジャンには名前が付けられないでいるけれど。
顔を隠すように枕を抱え込むようにうつむけていると、不意に背筋に何かが走った。
ルキーノの節ばった指がジャンの背を撫でたのだ。
「ちょっ!な、にすんだよアンタ」
「ん?酷使しちまったみたいだからな、ほぐしてやってるんだよ」
「ほぐすって、アンタが言うと何かいかがわし…ちょっ、止めろ、って」
ジャンのちょっとした抵抗なんて関係ないように、ルキーノの手は背骨に沿って動く。そして、そのまま肩胛骨を揉むようになぞった。
「ん、んんっ……」
「何だ?その色っぽい声は。誘ってんのか?」
耳をくすぐる空気の流れで、ルキーノが顔を近づけているのがわかる。くちゅり、と唾液の乗った舌が耳朶を沿う音がする。
「ちが、……ひぃっあ…!や、めろって!!」
耳を押さえて、ルキーノから隠すように向き直ると、そこには三日月に細められたワイン色の瞳があった。それが近づいてきたかと思うと、音を立ててジャンの唇を舐め上げる。
まるで、捕食するようなそんな仕草。体の中の色を現したような肉色の厚い舌が目の前で蠢いている。体が期待に震えてしまうのを止められない。
このまま流されようかというその時。絨毯の上にある、先ほど使用したピンク色の物体が目の端を掠めた。
白い液体に塗れたそれは、もう元の用途を成せないだろう。それと共に蘇ってくる記憶。あんな濃厚なのを一晩でもう一度となると、さすがに勘弁願いたい。
明日の予定を頭に浮かべ、ジャンはルキーノの口に手の平を当てると、押し返した。
「だーから、止めろって!今日はもう十分ヤっただろ」
「てッ、こら、押すな。…ったく、わがままなヤツだな」
どっちがだよ、と心の中で呟いて、上体を起こす。このままだとなし崩しに流されてしまいそうだったからだ。そんなジャンを見て、ルキーノが片眉を上げた。それから目をそらすと、これ見よがしに溜息をつく。
「……なんだよ」
「おまえのそれは、わざとか?それなら大したもんなんだが、な」
もう一度、こちらに視線が寄越される。呆れたようなその目は、少しばかりカチンと来た。ちょっと声を張り上げようとしたそのタイミングを見計らったかのように、ルキーノのでかい手がジャンの頭をぽんぽんと叩く。
「まあ、そうだな…。俺以外のヤツの前でそんなことするなよ?」
「はあ?だから、何なんだよ……」
その言い方が何だか嫉妬しているように感じられて、気勢を削がれてしまった。ルキーノは困ったように笑うと、ベッドから降り立ち上がる。
横の椅子にかけられていたルキーノの今着ているズボンと対のシャツを取り上げると、ジャンに向かって放り投げてきた。
それを慌ててキャッチする。
「そっちは水分吸っちまってるだろ。こっち着てこい」
「へ?」
そっち、とはバスローブのことだろうか。確かにおざなりに拭った水気を吸ったパイル地は、めくり上がった裾の先まで少しばかり重くなっている。
渡されたシャツとルキーノの顔を見比べていると、早くしろ、と促された。
仕方ない。ルキーノの目から逃れるように後ろを向くと、舌打ちが聞こえてくる。さすがにこの状況で、アンタの前で全裸になるほど馬鹿じゃあ、ありませんヨ。
ジャンは勢いよく脱いだバスローブを床に投げ出した。後ろの男が腰をかがめ拾ってくれたような衣擦れの音と、そして甘やかに吐かれた溜息の気配がする。
その間に、ジャンはシャツに腕を通した。するりとした感触。ワオ、これもしかしなくてもシルクなんじゃネーノ。そんな生地を寝間着にしようとか、何とも慣れない話だ。
ボタンを一番下まできっちり留める。しっかし、デカイデカイとは思っていたが、こんなにも違うとは。腕を伸ばしてみると、袖口からは指先がかろうじて見えるくらいでしかない。立ち上がると、さらに顕著に二人の体格差ははっきりすることだろう。
ジャンは後ろを振り返り男がそのワイン色の瞳をまん丸くしているのを見て、ちょっと嘆きたくなった。
「ちょっとばかりおまえには大きかったか」
「………アンタがでかすぎるだけだろ」
自分は小さくないと主張すると、ルキーノは形のいい眉を上げて苦笑した。ああくそっ。俺は標準サイズよりも大きいっつうの!だーかーら、笑うな!
喉を震わせて笑う男を横目に、ジャンは腕を組んだ。ルキーノはそんなジャンを見て、白旗を上げるように両手を胸の高さに挙げた。
「悪かった。機嫌直せよ。腹が減ってるんだろう?」
ニヤリ、と笑う男にジャンは視線を向ける。だが、食べ物くらいで誤魔化されは――って食い物?
「ダイニングに作っておいたミネストローネがある。まあちょっとばかり冷えてるだろうが温めれば問題はないさ」
「…………?そんなの作ってたっけ?」
自分には身に覚えのない話に、ジャンは首を傾げた。そこにルキーノの呆れた声がかぶる。
「おまえじゃない。俺が、作ったんだよ」
「へ!?」
ジャンは目を大きく見開いた。それからルキーノの頭のてっぺんからつま先までまじまじと眺め、もう一度先ほどの台詞を反芻する。誰が、何を、作ったって??
「なんだその目は?食わないんなら――」
「いや!食べる!!食べます!!!」
思わず口について出たその言葉に、ルキーノが破顔する。まるで、ガキのような笑顔だった。
ではどうぞ、と手を差し出された。その腕に右手を載せて、ジャンは絨毯の上の靴へと降り立つ。
「アンタ、料理なんて出来たんだな」
「そりゃあ、な。一人暮らしが続くとそれなりには出来るようになるもんさ」
その台詞の裏に隠れた物なんて気が付いていたけれど、ジャンはふうんと流した。とりあえずは、鳴りそうなお腹を何とかするのが先だ。二人して扉へと向かう。
足に何かが触れた。見てみると、ピンク色をしたくしゃくしゃの物体で。しかも、ジャンの着させられた物より一回りはデカイ。今着ているシャツの振れる袖の先を見て、先ほどの目の毒を思い出しげんなりする。
そして、一つの事柄に気が付いた。……考えたくねえ。その思考から離れろよ、俺の脳!
言い聞かせてみるが、その恐ろしい妄想は離れようとしてくれない。なら、せめて、相手に否定してもらったら少しは気が紛れるのではないだろうか。怖々と、その真相を問いただしてみる。
「……アンタ、さっき…レードル持ってたけど……まさかあの格好で…」
皆まで言わずとも真意は伝わったらしい。きょとんとした顔でこちらを見たルキーノだったが、一転して人の悪い顔になった。うげ、やな予感。
「ああ、あれ、な。――そうだな……おまえは、どっちだと思う?」
そうだな、ってなんだよ!大体、どっちも何も、全力で違うと思いたい。思いたいが――悩むジャンが瞬きをして、嫌そうな顔をしたとき。
今、おまえが考えてるとおりさ、という言葉と共にキスが降ってきた。



さて、どっちだったのでしょう。
2010.06.12

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